降りしきる雪の中を
一台の人力車が
甲府へと走り出した。
明治45年、大正元年という年は、白瀬中将率いる南極探検隊が南極に日章旗を掲ぐというニュースで明けた。日本で最初のスキー競技会が新潟で開かれ、日本初のタクシー営業が開始されたのもこの年。
甲府「古名屋旅館」創業者・伴野かめよは38歳。鰍沢の街で二度の大水害に遭い、家業の宿屋「粉屋」の経営に危機感を抱いてかめよは甲府への進出を決意する。時代は富士川舟運から中央線の前線開通に伴い、宿場町として栄えた鰍沢から甲府へと山梨の発展は変わりつつあった。
1912年冬、かめよと末娘マキ子を乗せた人力車は、祈りからの雪の中を甲府に発った。甲府の町で何が始まるのか、どんな生活が待っているのか全く分からなかった。不安ばかりが全身をおし包み「こんな心細いことは今までありませんでした」と後年マキ子がよく家の者に語ったという。
「粉屋」の屋号の由来には現在でも諸説はあるが、かめよの亡夫・和三郎の生家が米屋だったからというのが有力となっているが、定かではないとのことである。